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新年の新月を迎え 上弦の月 の春分

この記事を書いた人:ソガイハルミツ

新年の新月を迎え
上弦の月 の春分


この国で
春の節分と言えば
豆を撒く
悪者である鬼に対して

鬼はいろいろな物語で
悪者とされ
悪の象徴のように描かれます


まぁ、
その解釈は
自分や、その回りを取り巻く
邪気というか、負の流れ
つまりは
自分に対する不利益全般
ネガティヴな要素に対して
鬼というキーワードをあて

厄除けなど
マインドレベルで
それを排除させようと
豆をぶつけるお祭り
それが、
節分の豆まき



しかし、
その歴史的は背景は
古事記の時代から遡る
侵略者が先住民を追い出し
その侵略者の不利益である
先住民を鬼と称し
代々、先住民に対し
侵略者である自分達の
優位性を誇示させてゆくもの

即ち、
侵略者による
プロパガンダである


これは
人類の歴史において
珍しくはなく

イメージしやすいのは
アメリカにおけるインディアンや
倭人と沖縄
北海道におけるアイヌの人達
と言ったように
今の文明の殆どは
侵略によってつくられた
と言っても過言ではなく

よって、
単純に善悪として
割り切れない問題でもあります



侵略者たちは
追い払った先住民に対し
炒った豆を投げつる

炒った豆
それは芽を出さない種
命の循環を絶った
生命の象徴

つまり、
先住民に対する
圧倒的な種族への否定
迫害を表してます



子供の頃
テレビが各家庭に
当たり前にある時代を迎え
僕らを夢中にしたのは
ウルトラマンや仮面ライダー
といったヒーローの物語

そこには
必ず、圧倒的な
正義と悪の戦い

水戸黄門などの
時代劇にも同じく
その構図は
極めて分かり易く
自分達の
優位性や正当性を
実感させてくれるものでした


が、ふと
感じる違和感を
子供心ながら
いつも感じていて

その正体は、
明確に別れた善と悪
何故に
ヒーロー達は完全なる正義
悪者は完全なる悪
と言えるのだろうか、と



今、
シゼントトモニイキルコト
として
畑と向き合った時

そこには
その畑の土の中には
善い者も、悪者も
ヒーローもいません

そこにいる
生きものは全て
そのコミュニティを為す
それぞれの役割を果たしています



現代のビジネス農業は
その目的が
お金儲けという
明確な正義を共有してることで
害虫だったり、病原菌
雑草といったように
悪者という配役が存在し
その、
善悪の戦いは終わることなく
続けられています


その発想自体も
戦後から始まった
農と食のプロパガンダ
と考えると

少しは
社会の構造が
見えてくるような気がします



いろいろなところで
節分の行事が行われ
処によれば
鬼は内、だとか
福は内、しか言わなかったり
その形は
地方によって様々ではありますが


その、
畑における
生物多様性からなる
自然というエネルギー循環システム
に存在する生きもの達

その食物連鎖が織り成す
生と死の繰り返し

どんな生きものにも
その者にしか成せない役割があり
その存在が社会を担っており
その逆も、また然り


鬼という
存在の 瞞し
それは
心の中の 弱さから生まれる
エゴなのでは



そのエゴを
強引に正当化することで
歪む個体というコミュニティ
それがぶつかり合い
争いがうまれ
戦争が始まる


先住民にしろ
侵略者にしろ
それぞれの正義は
それらを悪とし
鬼とする


今の時代
この文化が
文明として成るには
その鬼という
アイデンティティを
どう解釈し向き合うか



上弦の月を眺め
そんなことを想う
年初めでした